アカデミア特権

 

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アカデミア、大学等の学術機関の問題点もメディアと共通する部分が多いが、独自の問題点もあるので、別記事としたい。

アカデミア、学問の使命は真理の探究とされる。

事実に基づき、研究と議論により真理への到達を志向する。当然のことながら、自分の考えを押し通すために相手の意見を封じたり殺したりするものではない。

 

「アベを叩き斬ってやる」

公道上で絶叫したのは法政大学教授の山口二郎氏。

 

「荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」

第2次安倍政権において安倍元総理が辞任した際に、その会見を見て涙が出たという松任谷由実氏の発言にSNSで暴言を吐いた、京都精華大学専任講師(当時)の白井聡氏。

なお、白井聡氏の肩書に(当時)とつけたのは、現在は准教授に昇進していることによる(発言を陳謝はしているが)。

 

左翼のテロ、殺人行為の数々を「うっかり暴力沙汰を起こした左派グループ」で片づけた、最高学府である東京大学の教授、隠岐さや香氏。

左翼のテロとしては、テルアビブ空港乱射事件、あさま山荘事件、よど号ハイジャック事件、三菱重工爆破事件などが有名だが、他にも多数ある。

参考記事(ウィキペディア)
 

いずれも学問の府、大学の教員だ。

学問の意義を自ら全否定するかのような発言をしながら、その地位は揺るがない。それどころか昇進さえできる。

ただ、基本的にそれは左派系の学者に限る。

これが逆に、保守系の学者が左派系の政治家や芸能人に対して「とっとと死ね」と発言したり右派系グループのテロを容認する発言でもしたら職を追われるだろう。

かねてから大学等の学術機関が左派系学者の巣窟ともいうべき状態であることは指摘されていた。

左翼思想も思想ではあり、それを持つこと自体が批判の対象となるものではない。だが、その地位に相応しくない言動をする者が少なからず目に付くのも事実だ。

どうしてそんなことになるのかと言えば、メディアがどれだけの偏向報道をしても責任を追及されないのと共通する。

 

まず、左派系学者に大学教員や学術機関の構成員といった地位、特権を保障することが戦後体制の下、左派に分配された利権であること。どんな言動をしようがテロを称賛しようが、その地位、特権は失われない。逆にそれを保障してくれる保守系政党の地位、利権を真に脅かすことはしない。

戦後体制 「保守」と左派の権益共同体制 | 安倍元総理暗殺後の馬鹿騒ぎに見る

そして、大学教授、識者、専門家といった地位、信用性がメディアのプロパガンダ、偏向報道を強化すること。

 

メディアとの相互補完

昨今取り沙汰されている、女性を盾にした利権を作りたければ、推進派の社会学者辺りを新聞やテレビに登場させ、疑問を呈する国民については「根底に女性への差別意識がある」とでも「分析」してもらえばいい。

移民政策を推進したければ、推進派の国際政治学者辺りを新聞やテレビに登場させ、不安を覚える国民については「根底に内向きな差別意識がある」とでも「分析」してもらえばいい。

その分野の専門性については専門の研究職である学者の方がメディアより高い。メディアにとっては報道の権威付けになる。多くの国民は大学教授とでもなれば中立公正に研究や分析を行っているだろうと考えているからなおのことだ。また、あくまで自分達は意見を紹介しただけだと逃げ道を作ることもできる。

学者は学者で、専門性はメディアより高い代わりに発信力はメディアより劣る。自分の主張、イデオロギーを拡散するにはメディアを通じるのが近道だ。また、特に大手メディアに登場したとなれば自らの権威付けになる。

 

アカデミアとメディアは相互補完の関係にあるという事もできる。

 

政治家も、メディアと相協力して自分達に都合の良いプロパガンダを担ってくれる学者の責任を本腰を入れて追及することはしない。前述のような暴言に対し本腰を入れて追及し、「学者とか案外どうしようもない連中なんだな」という認識が国民に広がり、学者への国民の信用が失われたらプロパガンダの効果が減殺される。

 

アカデミアの役割もジャーナリズム同様、一定の目的の為にする政治的宣伝、プロパガンダにある。

 

念のため、学者という人種が全てそうだというのではない。まともな、常識的な学者も当然多くいる。

だが、自ら学問の意義を否定するような学者を除くことができない、自浄作用を働かせることができないのであれば、アカデミアとはそういう世界なのだと判断されてもやむを得ない。

 

メディア以上の危険性

学問研究の阻害

前述のとおりメディアと同様、プロパガンダの使命を果たすアカデミアだが、メディアに比してプロパガンダとしての直接の影響力は小さい代わりに、より直接的に国家の存立、国民の安全を脅かす面がある。

例えば軍事研究の阻害だ。

日本学術会議の推薦者の任命拒否問題でも指摘されたように、希望者に軍事研究をさせない、禁止するといった事が行われてる。

あくまで自ら日本の防衛のために研究したいという研究者にそれを許さないというものだ。

 

学問の自由はどこへ行った。

 

しかも他方で学術会議は中国の軍事研究には協力していたとされる。

日本の防衛政策は妨害し、中国には軍事協力する。メディアは偏向報道により政策に影響を及ぼすが、アカデミアは、より直接的に政策を阻害しうる。

 

なお、メディアはこのようなアカデミアの行為を側面支援する。日本の防衛のために研究したいという研究者について、予算が付くから、金欲しさに手を挙げたのだというような印象操作の報道だ。朝日がこれをやっていた。

 

学問の世襲

アカデミアには学問の自由、独立性が保障されている。

アカデミアの(一応の)使命である真理の探究は、研究、議論によって行われるべきであり、その時々の政治の都合や民意に左右されるべきではないのは確か。それ自体は理由ない事とは言えない。

だが、そのため、外部からの批判にさらされない。いや、批判を受けても学問の自由、独立を盾に無視を決め込める。

そして、その「独立性」から外部の批判に影響されず、冒頭の暴言のような、学問の意義を自ら全否定するような学者が同じ思想、価値観の学者に後を譲る。

学問の、思想による世襲。

教授と違う考えを主張すると後継候補から外されるので下の教員は沈黙しているなどと言うのは聞く話だ。

 

競争原理は働かないし、自浄作用も期待できない。

そうなれば結局は前記事と同様の結論。政治がアカデミアに対する解体再編を断行するしかない。

本来の学問研究は国家国民にとっても必要不可欠なものであるから、税金投入だけ打ち切って「後はご自由に」ともいかない。

この政治による措置もメディアに対するのと同様、本来は望ましいものではない。

だが、本来、政治、民意の介入が制限されているからこそ、より強い自律性、自浄作用が求められるはず。だが、それが期待できない以上、政治、民意の不介入の前提は崩れる。

 

やや逆説的な表現にはなるが、本来の学問研究ができる環境を作るためにも、アカデミアは解体再編が必要だろう。

 
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