移民政策は亡国政策
ウイグル、ハワイ、テキサス。古くはローマ帝国、中華帝国(晋)等々。過去、数多の国が移民により滅んだ。
テキサスはメキシコの一部だったが、アメリカ移民が分離独立、アメリカに併合させた。
晋は聞きなれない国名かもしれないが、三国志の次の時代の国だ。
ケルンやパリの移民暴動など、現在のヨーロッパも無茶苦茶になっている。
移民政策は亡国政策。同じ轍は断じて踏んではならない。
これで終わる話。
そもそも、世界的に人口が減少する予測が出ているように、移民を呼んだところで来ないという事態も十二分にありうる。
では、人は減ることを前提に社会の仕組みを作り直すには何が必要か、いずれにせよ具体的な政策はどうあがいても不人気なものとなるであろうから、それらをどう国民に理解し協力してもらうか。
議論し検討するならこれらの点だろう。
他面、検討事項は上記であり「移民政策反対」それ自体は政策ではないため政治団体(予定)サイトでは簡単に触れている程度なので、移民政策についての認識を問われることがある。
そこで今回、移民政策について取り上げてみたい。といっても移民政策が亡国政策であることの説明は前記で足りると思うので、しばしば噛み合っていない感のある移民政策に関する議論を少し整頓する形で記してみようと思う。
人手不足という主張
移民政策の賛同者が主張する理由が人手不足や社会保障だ。
だから、それをやって滅んだ前例があるのだから同じ轍は踏んではならないという話だ。
前述のローマ帝国が兵士の人手不足を補うためゲルマン人を招き入れて滅んだのは有名な話だ。
晋もこれに先立つ三国時代、やはり兵士の人手不足を補うために招き入れた異民族によって滅んだ。
ユーラシアの東西で同じことをやっている。それくらい普遍的な事象なのだろう。
一応触れておくが、日本経済を支えられるだけの労働倫理、質を移民が持っているのであれば、どうして彼らの母国は日本のように経済発展していないのか。彼らはどうして母国で仕事に就けないのか。
世界的な人口減少の予測下、日本に来るのは母国でさえ「いくら人手不足だからと言ってこんな奴らはいらない」という外国人になるのではないか。
昨年のパリ暴動や2015年末のケルン集団婦女暴行事件のような事件が日本でも頻発し日本人が犠牲になり、社会保障も食い物にされ日本人が馬鹿を見、割を食う未来しか見えないのだが。
そもそも社会保障は、お互い困ったときは助け合おうという互助に基づく。当然日本人としての共同体意識など持つはずがない外国人がわざわさ日本へ来て支えてくれるものなのか。
「どうコントロールするかが問題」という主張
コントロールなどできない
この点、移民政策賛同者は移民について「どうコントロールするかが問題だ」と言う。
まず、コントロールなどできるのか。
人数の面
ちょうどこの記事を書いている時、「日本で暮らす外国人が国想定の1.5倍で増えている」というニュースがあった。
人数面からして既にコントロールなどできていないではないか。
コントロールをするというのなら、前提として予測を立てなければならない。立てた予測に従って対策を講じておく。
にもかかわらず、その予測自体ができていない。それでコントロールも何もない。日本が移民禍で無茶苦茶になって多くの日本人が犠牲になっても「想定外だった」で片づけるのだろう。
文化、価値観の面
日本人との間に軋轢を生まない、日本人に被害、犠牲を、負担を被らしめないというのなら、結局は日本人の文化、価値観、民度に合わせさせるしかない。
だが、それは裏返せば外国人に自分達の生まれ育って以来身についた文化、価値観を捨てろということ。コントロールというより同化だが、そんなことが可能なのか。
どう考えても不可能だろう。
ムスリム(イスラム教徒)であれば、豚肉を使った給食を食べろ、仕事中に礼拝を始めるな、死亡したときは火葬にしろ。いわば棄教させようというものだ。
また、日本人と同じ民度を持てるというのなら、まず、母国の犯罪発生率を日本以下にしてもらいたい。話はそれからだ。
人数の面であれ、文化、価値観の面であれ、移民をコントロールするなど不可能だ。
それでも政府・与党に「どんな手段に訴えかけても完全コントロール、同化させ、日本人を犠牲にはしない」という確たる意思が見受けられるなら、ともかく話は聞いてみようかくらいにはなるかもしれない。
だが、実際はどうか。
「多文化共生」
これだ。
コントロールなどするつもりはない。移民の文化、価値観、コミュニティ等々をそのまま持ち込む気満々だ。
多文化共生政策については、この移民政策の関連記事として別途投稿する。
亡国政策は知った上でのこと
一応、コントロールなどできるのかという点について述べた。だが、そもそもそれ以前の話だ。
「どうコントロールするかが問題」という移民政策賛同者の言。
どうして今になってそんなことを言っているのか
移民政策を推進したヨーロッパの惨状を見れば日本でも同じことが起こることは分かりきっていたはずだ。それを、何を今更ヌケヌケと。
ケルンの大晦日集団婦女暴行事件ひとつとってみても、一般人でさえヨーロッパの惨状は分かる。それを国政政党の政治家達が分からなかったなどという事はありえない。
ならば、移民政策推進に先立ってコントロールする方法を確立しておかなければならなかったはず。
だが、しなかった。というよりは、できなかった。繰り返しになるが、コントロールなどできないのだから。
だが、自分達の利益を優先させ、あるいは日本人に対する悪意から移民政策を推進した。
そして、当然予想された被害、犠牲が顕在化したら「どうコントロールするかが問題だ」。
コントロールの必要性は認識し、今、その方法が確立されていないことも認識している。それは最初から必要なコントロールを欠いたまま移民政策を推進した、日本人が犠牲になることを知りながら推進したことの証左でもある。
日本人への悪意と軽視の顕われに他ならないこのセリフ。これを得々と宣ってしまっていいのか。私は一向に構わないが。
更に、「どうコントロールするかが問題だ」であり「遅まきながら、こうコントロールする」ではない。
これもできないのが分かっているからだろう。それは今後も日本人が犠牲になること差し支えなしということでもある。
実際、現在埼玉県で起きているクルド人問題に関連し、政府与党・自民党の地方議員からさえ野放図な移民政策に対する批判の声が上がっているにも関わらず、自民党は沈黙している(「クルド人は移民ではなく不法滞在者で」という指摘に関しては次の記事で取り上げる)。
それどころか不法滞在者に在留特別許可。
支持者からも、移民政策は必要だが、犯罪や危険行為は厳しく対処すべき、在留特別許可のような犯罪追認などすべきではないという批判も聞かれない。
これで適切な管理コントロール云々言われても、できもしない、そもそもやる気もない事をよくもしゃあしゃあと、と受け取らざるをえない。
結局、日本人の生存、安全になど関心はない。
何の事はない。
「日本死ね」だ。
私が移民政策についてあまり議論する気にならないのはこれだ。
移民政策の賛同者は移民政策が亡国政策であることは分かっている。分かっていてそれを容認し望んでいる。相手が百も承知の事に言葉を尽くして説明するのは無意味だ。
実際、前述のクルド人の例にも見られるように、移民政策の賛同者は移民犯罪の被害について反応しないか反応が薄い。「日本がどうこういう時代は終わった。移民政策でグローバルな世界へ移るためのやむを得ない犠牲だ」とでも言うのならまだ議論になるが、この点に反応しないので、しばしば議論が一方通行になり、噛み合わないという事にもなる。
何なら、移民政策であっても移民政策でないことにすれば移民禍も移民禍ではない。
何を言っているのか訳が分からないと思うが、憲法の自衛隊関連でも聞いたことがあるような、あれだ。
「呼び方が違うから移民政策ではない」
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