夫婦同姓・別姓のメリット・デメリット
ここしばらく、夫婦同姓、夫婦別姓の議論が目に付く。とりあえずは選択的夫婦別姓導入の肯否が主な議論の的となっているようだ
私としては、やはり夫婦同姓がいいと思っている。
私は結婚や子供について実体験に基づいた説得力のある意見を言える自信はないが、日本のあり方に関わる部分もあるので、自分なりの考え方を述べてみたい。
夫婦同姓のメリットとして挙げられるのは家族の一体感、デメリットは結婚の際の手続の負担等。
夫婦別姓のメリットとして挙げられるのは結婚に際して改姓する側の氏の喪失の回避、手続の負担の軽減、デメリットは家族の一体感の喪失、誰と誰が家族なのかわかりにくくなること等。
それぞれ一理あると思う。
ただ、別姓論者から同姓論者に対し、別姓で崩れるような家族の一体感は一体感ではないという批判がある。それは批判として妥当する。
逆に、改姓でそれまでの自分の実績が失われるというデメリットが別姓論者から主張されるのに対し、改姓でなかったことになる実績は実績といえないのではないかという反論が妥当する。
私の住んでいる茨城県つくば市は、昭和末期から平成にかけて筑波町、谷田部町、大穂町、豊里町、桜村、茎先町が合併して誕生した。それぞれの町名は消えた。
では、それにより、それまでの町の歴史がなかったことになるのか、最初からなかったことになるのか。
そんな事はないだろう。
また、女性が改姓することが多いので不平等な負担だという意見もあるが、では、結婚に際して新たな姓を創り夫婦とも改姓するという形なら同意なのだろうか(実際にそういう国もある)。
いや、ややこしくなるので、そんな制度を導入しろというわけではないが。
ほか、別姓論者でも子供の姓は統一するとしている。
何故だ。
個の尊重云々言うのなら、子供のうちから姓は別々にし「個」に慣れ親しませるというのでなければ一貫しないのではないか。
また、子供同士で同姓にできても、両親の双方とは同姓になれない点はどうするつもりなのか。
子供の心情を配慮して子供は同姓にするというのなら、父母双方と同姓になりたいという子供の心情に配慮しなければ一貫しないのではないか。
逆に、同姓を選ばなかった両親の個の尊重を優先させるというのなら、初めから子供の姓を統一する必要はないではないか。
ちなみに、欧米では、中国・韓国では夫婦別姓だという意見もあるが、それらの国々はそれぞれ自分達の好きなようにやればいい。日本の問題を議論しているのだ。
議論を眺めていると、別姓論者の主張の方に違和感を覚えることが多い。自分が同姓論者だから揚げ足を取ろうというのではない。
また、別姓論者は夫婦同姓は伝統ではないとも主張する。
夫婦同姓は伝統か
夫婦同姓は日本の伝統なので維持していくべきだという意見が保守層から主張される。
別姓論者は、夫婦同姓は日本の伝統とまでは言えないから固執する必要はない、保守=夫婦同姓という構図は当たらないとも主張する。
では、夫婦同姓は日本の伝統なのだろうか。
夫婦同姓が正式に法制化されたのは明治31年(1898年)。今から百数十年前だ。
では、それ以前はどうだったかと言えば、時代により階級により差異があり、そもそも氏、姓、名字(苗字)は厳密には別物である。
一応、氏は血統、姓は天皇から与えられた位等に由来するもの(ゆえに天皇家自身には姓がない)、名字は血統の中の特定の家系-根拠地の地名から取られることもある(ゆえに苗字ともされる)-と区別はされるが、境は曖昧である。
その上、江戸時代は庶民は姓は持ってはいても名乗れず、代わりに屋号を名乗ることがあったため、複雑で極めて分かりづらい。
あえて説明するなら、一概に言えない、ということになる。
正直、氏、姓、名字(苗字)の定義を歴史の流れに沿って使い分けながら説明できる自信はないので、テーマに合わせて姓で統一して大まかな流れに触れるという形にさせて頂きたい。後に述べさせていただくが、歴史的にどうだったかのかは、少なくとも現時点で選択的夫婦別姓を導入するかとは直結しないと考えている。
分かりやすい歴史上の夫婦別姓の例として、源頼朝、北条政子が挙げられる。
「北条」政子であり、「源」政子ではない。
北条政子と源頼朝の間には、長女、通称大姫のほか源頼家、源実朝の2人の息子がいた。
この2人の息子は、いずれも暗殺されている。
武家政権確立の過程における事件という面もあるが、政子の実家である北条氏が幕府の実権を握るのに邪魔だったからでもある。
そして、政子自身もこれに加担していたとされている。
尼将軍と呼ばれた実力者である政子が2人は島流し程度に止め命までは取るなと動けば、いくら頼家、実朝が北条氏にとって邪魔でも殺害まではされなかったといえる。実際、幕府乗っ取りを企てた政子の実父、北条時政は幽閉はされたが命までは取られていない。
少なくとも政子の黙認の下に頼家、実朝の暗殺は行われたと考えられる。
鎌倉から時代を下って戦国時代。
独眼竜こと伊達政宗は、最上家から父伊達輝宗に嫁いできた母、通称義姫に毒殺されかけたとされている。
これは最上家に脅威となりうる政宗を排除して次男小次郎に伊達家の家督を継がせるためだとされている。
もっとも、近年ではむしろ政宗への家督移行をスムーズにするための狂言ではなかったかという指摘もある。
しかし、狂言をするにしてもわざわざ母親による実の息子の殺害を演出しなくとも、他にやりようがあったのではないかとも思うが、当時としてはそれほど違和感のないものだったのか。
いずれにせよ、政宗暗殺未遂が事実にせよ狂言にせよ、母親が実の息子を殺そうとしたという構図に変わりはない。
だが、鎌倉時代の北条政子も、戦国時代の最上義姫も、実の息子を殺そうとした人非人と囂々たる非難が浴びせられたとは伝わっていない。
自身の実家のための正しい、正しいとまではいえなくともやむをえない処置として容認されるというのが当時の感覚だったのではないか。
だから夫婦別姓だと母親による子殺しが頻発するなどと言うつもりはない。さすがに例外的ケースだろう。
ただ、いずれのケースを見ても、日本の過去の夫婦別姓は、特段個を尊重するとかではない。むしろ別姓論者、リベラルが批判する「古い家制度」に基づくもの。
リベラルが、夫婦別姓が歴史的大勢だからと主張するのは矛盾するのではないか。
そして、江戸時代に入り、日本は引き続き武家政権が続いた。
少なくとも武家では夫婦別姓も続いた。公家も概ね同様だったようだ。
そして、明治維新を迎える。
明治維新後、明治9年(1876年)の太政官指令で妻の氏は実家の氏を用いるとされた。すなわちこの時点では一旦夫婦別姓とするとされた。
が、実際には武家、公家も夫婦が同姓を名乗る事が多かったのか、あるいは四民平等で武家や公家を庶民の方に引き寄せたのか、明治31年に正式に民法に定めるにあたって夫婦同姓とされた。
夫婦同姓の歴史をこの時点からとするなら、確かに夫婦同姓は百数十年ということになる。
だが、上述のとおり明治より前からから日本では夫婦同姓は行われていた。
別姓と同姓がそれぞれ行われ-別姓の下では母が我が子を殺すことさえあるという経験も加味し-紆余曲折の末に夫婦同姓という結論に至った。
明治31年まで一度も夫婦同姓が試みられたことがない、さらには国民に姓がなかった(そういう国は実際にある)というのなら、夫婦同姓は、さほど長い伝統ではないとも言える(それでも百数十年あるが)。
が、別姓と同姓は平行しており、長い積み重ねの結果行き着いたのが夫婦同姓だった。
明治に突然現れたものではなく、正式に法制化されたのが明治だというだけで、十分伝統と言っていいのではないか。
保守を伝統、価値観等を尊重する立場と定義するのなら、論理必然とまではいえなくとも、少なくとも保守と夫婦同姓は親和性が高いと思う。
メリット・デメリットがいかなるものであっても
ここまでお読み頂きながら議論を遮断するようで恐縮だが、私はメリット・デメリット、伝統か否か云々は関係なしに、夫婦別姓を導入すべきではない、してはならないと考えている。
基本的に、様々な議論について「誰が言っているか」ではなく「何を言っているか」で判断すべきではある。
しかし、応用的に「誰が言っているか」も判断材料にすることが必要な時もあると思う。無論、どうしてそうするのかの根拠を示すことは必要だが。
ぶっちゃけ、今回、夫婦別姓を導入せよと主張している面々を見てみると、どこかで見たような顔ぶれだと思わないだろうか。
「日本死ね」の連中だ。
日本死ねというのは、あなた方日本人全てに死ねといっているということだ。
家族は、国家社会、共同体の最小構成単位、最も基礎的な社会集団でもある。
その家族を解体破壊し、最終的には日本という国家を解体、あなた方日本人を含めて死に至らしめるというのが夫婦別姓論者の目的だ。
故に、選択的夫婦別姓を導入すれば、次は必ず義務的夫婦別姓を導入してくる。
夫婦で同じ姓を名乗りたいという夫婦にも別姓を強制してくる。
選択的ならいいのではないかという意見も「本来なら」全く理がないわけではない。
YoutuberのKazuya氏が、選択的夫婦別姓を認めていいのではないか、実際には姓は統一するだろうと動画で述べて、ちょっとした驚きを以って受け取られていた。
「本来なら」、選択的夫婦別姓を認めるかどうか議論。仮に認めて導入したとして、次いで全ての夫婦に別姓を義務付けると言い出したら反対するというのは1つの流れではありうる。
だが、この夫婦別姓導入を主張するリベラルは日本に、日本人に対する明確な悪意と敵意をもって行動している。
一歩譲れば百の譲歩を強要してくる。
国家間の問題でも、寸土を渡せば全てを失う結果ともなる。全てを失わないためには寸土でも譲ってはならない。
大げさと思われるかもしれないが、夫婦同姓別姓の問題は家庭だけでなく、社会、そして日本という国家の問題ともなる。
左翼・リベラル大好き世界人権宣言でも「家庭は社会の自然かつ基礎的な集団単位」であるとしている。
別に国際機関様がこう仰せだからなどと言うつもりはない。世界人権宣言などとご大層な表題がついているが、単なるコクサイキカンのツイート、呟きだ。
とはいえ、リベラルが常日頃は持ち出すコクサイシャカイをこんな時は黙殺するのは、世界の中の、日本の人権保障のために動いているのではないことの証左だろう。
彼らの目指す「日本死ね」を阻止するためには、この夫婦の姓の問題でも一切譲ってはならない。
譲る姿勢も見せてはならない。
堤防に蟻の一穴を開けようという意見は意見であっても取り合ってはならないのと同じだ。
仮に選択的夫婦別姓を認めれば、次は夫婦別姓を強制してくる。
現時点では夫婦別姓にしても子供の姓は統一すると言っているが-主張が一貫していないのは上述のとおり-次は必ず子供の姓もバラバラにしてくる。
家族の姓をバラバラに解体したら、次は婚姻制度の廃止を、戸籍の廃止を強要してくる。
戸籍の廃止について触れると長くなるので機会を改めたいが、簡単に触れると、失踪外国人のように身元不明の人間があなたの町のそこかしこに住み着くということになる。
犯罪や工作に利用されるのは勿論のことだ。
ちょうど、拉致被害者である有本恵子さんの母親、有本嘉代子さんが亡くなられたというニュースが入ってきた。
戸籍がなくなるということはこういう悲劇がより起こりやすくなるということ。
あなた方家族もある日突然居なくなり、別の人間があなた方に成り代わるということにも繋がりうる。背乗りという言葉を一度くらい聞いたことがあると思う。
「個の尊重」を突き詰めていくなら、結婚も廃止して子供はランダムの人工授精、生まれたら親には会わせず(というより会わせようがない)養育施設で育てることにでもなる。
選択的夫婦別姓を容認してもいいのではないかという意見の方でも、こんな事態まで容認しないだろう。
それでいいんだという方は特に言うことはない。見解の相違だということだ。後は日本国民にそれぞれの意見を聞いて判断して貰うだけ。
今ここで選択的夫婦別姓を認めれば、極端な話でなくそういう事態が訪れうる。
選択的夫婦別姓の議論は「日本死ね」のリベラルが片付くまで待って欲しい。その時になれば、真に建設的な議論ができるようになる。
個の尊重を主張するお歴々は、自分達が選別した個を尊重するというだけのこと。要は均一を求めているということだ。異論は、異なる価値観は認めない。
夫婦親子で同じ姓を名乗って暮らしていきたいというあなた方の個など決して認めない。
繰り返しになるが、選択的夫婦別姓は容認してもいいという方でも、夫婦親子別姓の強制どころか婚姻制度自体廃止して子供はランダムの人工授精、生まれたら養育施設で育てることを容認する方は殆どいないだろう。
だが、選択的夫婦別姓を認めれば、その事態は十二分に訪れうる。そして、その時になって、そんな制度は嫌だという意見を言ったところで、あなたの意見など、価値観など一顧だにされない。一蹴される。
蹴飛ばされるだけで済めばいいが。
夫婦同姓。
デメリットの部分はある。不便や負担はある。それは事実だ。
だが、その不便が負担が、あなたの個を守ってくれる。
嫌いな人が賛成しているからというだけで自由にいちゃもんつけるあなたと、選択的夫婦別姓という自由の実現に向けて着実に歩みを進める活動家では、後者の方が明らかに日本人の自由に貢献してそうっすね