戦国の宗教利権

「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は、比叡山焼き打ちや長島、越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような、狂信の徒の皆殺しである。」

これは宗教分離についての歴史作家の塩野七生氏の言葉だ。宗教戦争の根絶の方に重点を置いてのものだが、同時にこれが宗教勢力の利権の解体にも繋がった。

現代日本の危機的状況と幕末の状況の類似点を挙げる意見が見受けられるが、戦国との類似点もあると思う。

織田信長の政策として関所の廃止が有名だ(信長の完全オリジナルではないが)。この政策がとられた背景には、比叡山延暦寺などの古くからの大寺院が多くの関所を設けて通行料を巻き上げていた事がある。この利権により物価が高騰し庶民を苦しめていたことも有名だ。無論、物流にも支障を生じる。

同じく有名な楽市楽座。このような政策が行われたのも逆に、寺社が自分達の意に沿わない業者を排撃していたことによる。排撃という表現を使ったのは市、座から締め出すにとどまらず、それ以外のところで商いをしようとする人を襲撃するという事までしていたことによる。

他にも年貢の中抜き等々、挙げたらキリがないのだが、こんな勝手ができるのは、宗教的権威を背景にしていたこと、幕府・朝廷といった政治権力とも繋がっていたことにもよる。例えば、有力公家、武家の子息の受け入れなどだ。室町幕府の最後の将軍、足利義昭も興福寺の門跡となっていた。

信長よりも前の時代にはなるが、幕府・朝廷への強訴により自分達の要求を押し通していたこともご存じの方が多いだろう。

無論、このような利権構造、宗教勢力の横暴には多くの人が憤っていたろうが、非難の声を上げる者は仏敵のレッテルを貼られた。単なる悪口にとどまらず暴力、殺害も含む。当然、宗教利権に切り込んだ信長も仏敵のレッテルが貼られた。

 

現代との類似点

現代もよく似ている。

今、東京都で問題となっている若年女性支援委託事業に表れる公金利権、再生エネルギー利権、アイヌ利権等々。

関所に似ているものとしては再生エネルギー関連を挙げる事ができるだろうか。戦国は関所の通行料が上乗せされた価格を支払わなければ生活物資が購入できなかった。現代は賦課金を支払わなければ電気を利用できない。

東京都の若年女性支援委託事業も該当するが、公的な委託事業は往々にしてどの団体でも受託できるものではなく既存の政党や組織団体等と関係する事業者に限られる。

宗教勢力の意に沿わない業者が締め出された戦国の市・座を思い起こさせる。

そんな横暴が可能なのは、既成政党、官僚OBを通じた官庁といった政治権力との繋がりがあることにもよる。戦国の宗教勢力も世俗の政治権力と繋がっていたのは先に述べた通り。

このような利権を批判する者に対しては差別主義者といったレッテル貼り。

仮に役所や企業、団体が難色を示せば反差別や多様性の神輿を担いで押しかけ強訴。本来国民を護るはずの既成政党は活動団体と繋がっているので沈黙するのみ。

戦国とよく似ている。というか、人間のやることは時代が異なっても大して変わらないということなのかもしれない。

だが、かといって、この利権構造を放置していては内から蝕まれて国が亡ぶことにもなりかねない。

ではどうすべきか。前例に求めるなら、戦国の時はどうしたか。

 

冒頭で紹介した言葉。

狂信の徒の皆殺し、だった。

仮に信長が「信仰は自由だ。だが、政治に介入し、利を貪って民衆を苦しめるのはやめろ」と誠意を尽くして説得したら宗教勢力は応じただろうか。

「仏敵」の罵倒が返ってくるのが関の山だったろう。

宗教的権威といっても、特に寺院は根本的には「国家鎮護」だったはず。それが国を蝕む所業の数々の正当化になるのかという疑問は沸く。

宗教にはそのような、人の理性を麻痺させる、狂わせるという副作用がある。また、もともと理性、良心に欠ける人間にとって手っ取り早い大義名分となりやすい性質も持ち合わせているということなのではないか。

宗教は実証不可能なことを真実と信じる事と定義されることもあるが、それならば「事実も理屈も何だっていい」という方向にも行きうることとなる。

推測になるが、戦国の宗教勢力は自分達の所業を正義だと思っていたのではないか。「国家鎮護の使命を果たすために庶民が献金するのは当然の事だ」といった感じで。

前半で、宗教勢力は市・座とは別に商いをしようとする人を時には殺傷までしていたと述べた。

自分達に正当性があると思っていなければ、中々ここまではしないのではないか。「仏罰を与えている」という正義を遂行している感覚があるからここまでできるのではないだろうか。

あくまで推測だ。

 

少なくとも確実なのは、こういう者達に「話など通じない」ということだ。

結果、利権を解体し国のガンを切除するには皆殺しにするという事にならざるを得ない。別に信長が血に飢えていた訳ではない。

現代も似たようなものだろう。

反差別でも多様性でも環境でも、宗教の域に達している者相手に話など通じない。

きちんと事実に基づいて論理立てて説明や批判をし、あるいは質問しても彼らの反応は「差別」だ。

話など通じない、話し合いでは解決しないという点は戦国と共通する。

ちなみにこの手合いは左派・リベラルを思い浮かべるだろうが、近時は「保守」も似たようなものだ。

他方、信長は戦による皆殺しという手段によらざるを得なかったが、それは戦国時代の宗教勢力が武装していた為で、それは秩序が崩壊していたことによる。幸い現代日本はそこまでは至っていないという違いはある。

当面、利権解体の為に内戦まがいの事まではしなくて済むだろう。

ただ、制度をチョコチョコいじくって一件落着という簡単な話でもない。

大鉈を振るっての大掃除が必要となるだろう。