怠ってはならない国家の義務

自分でタイトルをつけておいて何だが、こんなもの問題でも何でもない。

祖国のために戦い命を落とした方々を公に慰霊追悼するのは当然であり、議論するようなことではない。古代ギリシャの時代で既に、国家のために戦った者の慰霊追悼は絶対に怠ってはならない国家の義務とされていた。

現代のアメリカのアーリントン国立墓地は有名だし、中国には天安門の人民英雄記念碑、韓国にも顕忠院という施設がそれぞれ慰霊追悼施設となっている。日本含め、公人が訪問する際、これらの施設にも訪問したり献花したりする。

靖国についてあえて問題とするなら、参拝しないことが問題だ。

今年も総理が靖国に行く行かないとやっているが、もう、行きたくても行けないと言うなら行かなくていいという気持ちにもなっている。祖国のために戦い命を落とした方々を遺棄したという事実が残るだけだ。

経済界からの要望だというのなら、彼らもまた同様。ただ、自分達が危険に晒されたとき、都合よく同胞面して日本人に助けを求めるなとも思うが。

 

そもそも、次元は違えど会社とて同じではないのか。

仕事で出張に行った際に、何らかの事件、事故で社員が亡くなった。

そのような場合、葬儀に会社の人間が会社を代表して参列するのではないか。会社のために働いて命を落としたのだから、会社として謝意を伝え、冥福を祈るのが当然のはず。

にもかかわらず、葬儀に会社の人間が誰も来ない。ようやく来たと思ったら「会社とは関係ない知人としてプライベートの立場で来ただけ」とポケットマネーから出した香典だけ置いて帰った。

仮に貴方がこの亡くなった社員の遺族だったら、会社のために働いて命を落としたのに、あんまりな仕打ちだと悲しみ憤るのではないか。

既存政党の政治家や財界人がやっているのは、この仕打ちと同じことだ。

 

ちなみに経済同友会が記者会見まで開いて総理は靖国神社に参拝するなと方言したことは決して忘れない。

 

ともかく、靖国参拝反対派はこの仕打ちを正当化するためにあれこれ理由をつけている。

 

政教分離原則との関係

まず、総理の靖国参拝は憲法の政教分離原則違反だという主張がある。

これに対して社会的儀礼であり宗教的行為ではないと言う再反論がある。社会的儀礼という側面も当然あるが、慰霊追悼は同時に宗教的行為だと考える。公共機関主催の慰霊祭でお坊さんが魂の安寧を願って読経するのを、宗教的行為ではなく純然たる社会的儀礼なのかと問われれば、おそらく皆さんは社会的儀礼だけではないと答えるのではないだろうか。

では、憲法に反するのかといえば、そんなことがあるはずがない。そもそも国家、公共機関と宗教を完全に分離することなどできない。

国防レベルではないが、殉職警察官の慰霊追悼の式典に知事や市区町村長が参加することを政教分離違反で認められないという方は、まずいないだろう。

それすら政教分離違反で認められないというのなら、憲法は国家の義務を否定し、先の社員のような仕打ちを肯定する。一方では個人の尊厳を謳いながら、実際は人を踏みにじることを厭わないということだ。

 

無宗教の国立追悼施設

靖国とは別に無宗教の国立追悼施設を作るべきという主張がある。

この主張は趣旨がよく分からない所がある。

靖国での慰霊追悼は宗教的行為だが、国立施設なら無宗教になるということだろうか?

方式は神道かそれ以外かで変わっては来るだろうが、慰霊追悼それ自体が宗教的行為であることには変わりない。

仮に無宗教を貫くというのなら、そもそも慰霊追悼を行わない、祖国のために戦った方々は遺棄するということになる。

そういうことなら、無宗教の追悼施設(矛盾した表現だが)は既にある。国立というより公営だが、各地にある公営のゴミ焼却場だ。今後戦死者が出たら、焼却場に放り込んで遺灰は埋め立てるなり海に流すなりし、後は一切省みないということになる。

例えでも酷いと言われるだろうが、靖国に参拝するなと言っているお歴々の戦没者に対する仕打ちは、まさにこれだ。

 

A級戦犯分祀

いわゆるA級戦犯を分祀すべきという主張がある。

コップの水からA級戦犯分の水滴だけを取り除くのは不可能という例えがなされるように、そもそも不可能というのが靖国神社の説明だ。

教義上の話は話として、それ以前の問題だと思う。

 

そもそもA級戦犯て誰?

 

東條英機首相ら東京裁判で裁かれた指導層で、誰か戦争犯罪-例えば、民間人を焼夷弾で焼き殺したり新型爆弾の動物実験体にしたり、避難民に戦車砲を打ち込んだ上ひき殺したりの虐殺・残虐行為の数々-をしたのか?

それがないからこそ、戦後国会の全会一致で、いわゆるA級戦犯の名誉回復がなされたのではないか(当時は少なくとも今よりは国会が健全だった)。

日本国内においてA級戦犯なんてものはいない。外国が勝手に戦争犯罪者だと言っているだけだ。A級戦犯分祀云々などというのは、そもそも議題とならない。

 

戦争指導層の合祀

靖国には戦場で戦った兵士だけでなく、彼らを送り出した側も祀られている。違和感があるという主張がある。

送り出す側、指導層は戦略を立て、送り出される側、指揮官や兵士は戦場で戦略を遂行すべく戦術を立て、戦闘を行う。

役割が違うだけで、いずれも戦ったことには変わりない。

それとも、こういう主張をするお歴々は、戦場で実際に銃を取って戦闘を行った者以外は慰霊追悼に値しないというのだろうか。

確かに、戦略に問題があり、戦死者を増やしてしまったということはあっただろう。だが、戦略に問題があったことは、戦略を立てるという役割で戦ったことを否定する理由にはならない。

現在、アメリカでは、「太平洋戦争(アメリカ側から見た表現)」の意義の再検討、更には東京裁判の見直しの動きすらあるという。

日本という防壁を破壊して、今現在の中国の周辺各国への侵略、ひいては、アメリカ自身の国益や存立すら脅かす事態を招いた。

仮に太平洋戦争が必要のない戦争だったとという結論に達したら、それは太平洋戦線の戦没者は必要のない死だったということになるし、それを送り出した側の指導層は兵士を無駄死にさせたということにもなる(それ故、おそらく対日戦争の誤りを正面からは認めないのではとは思っている)。

では、そうなったとき、兵士を送り出した指導層は戦いにおける役割を果たさなかったことになるのかといえば、首肯する方はいないのではないか。

 

それでも靖国参拝を否定するなら

祖国のために戦った者の慰霊追悼は絶対に怠ってはならない国家の義務。

この義務を、戦没者の慰霊追悼を認めないのは、その国家を否定するに等しい。

 

石原慎太郎氏の言葉をお借りしたい。

今なお、あれこれ理屈をごねて靖国参拝に反対する歴々。

 

比喩的な意味も含め。比喩的な意味に限らず。

 

「あいつら日本人じゃないんだよ」

 

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